ブログカテゴリ:2018年10月


30日 10月 2018
 昨日、事務所近くを通っている環状八号線の歩道を歩いていると、草叢から秋の虫の音が聞こえてきました。もう、10月も下旬になります。私が気付かなかっただけで、もっと早くから鳴いていたのかもしれません。それにしても、今年はいつまでも夏の名残で暑さが続いたように思います。虫の音には気付かなくても、気温の変化は生活に影響を及ぼします。週間天気予報を見ながら衣替えをいつにするか思案する季節です。特に、朝夕と日中で気温に差がある日などはどうしたものかと悩む人も多いのではないでしょうか。  我が家はマンション生活なので、それまで住んでいた戸建の家に比べて収納スペースに限りがあって夏の間、使用しない冬の衣類は屋内で保管せずに専門業者に預け、この時期になると、それらが戻ってきます。これも季節の移り変わりを感じさせてくれる年間行事です。かつては、半年ぶりに冬物の衣類に袖を通して、まずは体型の変化が気になりましたが、その点において、この十数年は特に問題はありません。むしろデザインが古臭く感じられたり、逆に、今の自分には若すぎたりします。そんなときは、どうしても袖を通す気になりません。こうして、いくつかの衣類は、また半年間、自宅の引き出しに仕舞い込んだまま、ただ保管しておくだけになってしまい、それでも、また、いつか着ることがあるかもしれないと捨てられずにいます。それはサイズやデザインといった実用的な側面ばかりではなく、購入した時や、初めて着たときの思いが影響しているのかもしれません。  人はそれぞれの過去、現在、未来を歩んで生きています。そして、生きてきた過去を衣類と同じく「想い出」というパッケージに包み込んで心の中に仕舞い込んでいます。使わなくなった「想い出」も捨てるに捨てられず、心の奥底に仕舞い込まれていくと、いつかいっぱいになってしまうので、忘れてしまうことも、必要な作業なのかもしれません。それは、あたかも使わなくなった衣類のように…  衣替えは季節の変わり目の年中行事と申し上げました。季節が変わらなければ衣替えも必要ありません。それでは、人生において季節の変わり目とは何を指すのでしょう。それは(自分だけでなく家族も含め)受験、就職、転職、結婚、近親者の死など、多くの出会いと別離ということでしょうか。私たちも、これから先、いろいろな季節を体験することでしょう。 今月は同窓会の梯子をして少し感傷的になったせいでしょうか、刹那に暮れゆく夕暮れから、季節の移ろいに思いを馳せる秋でした。
23日 10月 2018
 社章とは、つまりロゴマークのことです。多くの企業がそれぞれの思いを込めてデザインしています。弊社の場合は三角屋根の家をイメージした図形の中心に“VALUABLE”の文字を重ねたものです(このホームページにも使われています)。大企業では多くの社員のアイデンティティーを明確にするためか?外部に対する広告のためか?社章を象ったバッジを社員に配って業務中は身に着けるようにしています。そう、あのスーツやジャケットの襟元に着けるバッチのことです。同じような役割のものとして、ユニフォームの胸の部分に社名や社章が入っているのを見かけます。  どこの企業でも、創業時の志を実現し、社業を発展させるといった未来への期待を込めて、社章を創ります。その時点では誇りに満ち満ちた社章も、ときには企業の命運とともに埃をかぶってしまうこともあります。あるいは、通勤電車の中で向かいに立つビジネスマンの襟に見覚えのあるデザインのバッチを見つけて、「ほー、あの一流企業の社員か!」ということも珍しいことではありません。だからどうなの?という訳でもありませんが、社章を胸に光らせているということは、外部から見られている。それは一個人の立場を超えて、組織の一部、また言い換えれば、その場において組織を代表しているといっても過言ではありません。  1996年に「タケイチ建設株式会社」を設立したときの社章は“VALUABLE”の代わりに“TAKEICHI”の文字が入っていました。その後、社名変更とともに現在の社章に変更しました。これで、より一層、志を明確に発信できると思います。  私は以前より、社章をバッチにして社員全員が身に着けることを夢見てきました。何のために?と問われれば、「一流企業の真似をしたいから」というのが正直な答えです。しかし。これが真似でなく真に社章のバッチが意味を成す日が来るまで待とうと思います。そのためには、いろいろな意味で精進してゆくつもりでおります。どうぞご支援の程、宜しくお願い申し上げます。
17日 10月 2018
現在、放映中のNHK大河ドラマ「せごどん」を毎週、楽しみにしています。ドラマの主役は言わずと知れた西郷隆盛。この歴史上の人物の生涯を描いています。大河ドラマは歴史を壮大な大河の流れに見立てて制作しているのですから、主役、脇役を問わず、自ずと登場人物は歴史上、名を残した有名人が多くなります。...
09日 10月 2018
今年の夏はこれまでにない猛暑だったせいか、あるいは、ただの偶然か、以前から大切に思っていた人が二人お亡くなりになりました。お一人はご高齢、もうお一人は長年の闘病生活の末でした。暑さも一段落した9月の下旬になって高校時代の同級生の訃報が立て続けに2件飛び込んできました。今度は年齢が自分と同じということに少なからず衝撃を覚えました。4人の方々それぞれに想いがあるものの、個々の事情については差し控え、このようなときの“哀悼の意“はどこから生じて、どこに向けられるのかについて考えてみたいと思います。 子供の頃、初めて身近な人の死に出会ったのは、もうすぐ3歳の誕生日を迎えようとするときに、同居していた祖父が亡くなったときのことでした。このとき、血のつながった父よりも義理の関係の母のほうが悲しみを露に泣き崩れていたことが印象に残っています。その場面を目にして、死に対する悲しみを学習したような気がします。その後、成人してから、祖母や両親など近親者を失いましたが、幸いにして皆、安らかに永眠につきました。そうなると、情の面での喪失感は勿論ありますが、実生活では、さほど影響がなかったうえに、世間的儀礼の面で忙しいこともあって、無事に見送ることができたという安堵感が寂しさに入り混じっていました。 悲しみは、かつて故人と一緒に過ごした思い出から生じ、これから自分自身も似たような道を辿るであろうという感慨に向かっています。お世話になった人や親しかった人の死に直面したとき、やはり、情の世界で故人を忍ぶことになりますが、家族の場合と少々、事情が異なるのは遺族の心情を慮ることでしょうか。故人との思い出から生じた感情は遺族に対する悼みへと向かいます。 人の死に直面して呼びかける言葉は果たして故人に届くのでしょうか。それは、わかりませんが、こうして考えてみると、既に故人となって、現実の世界には存在していないとしても、遺された人々の思い出の世界には確かに存在しているのでしょう。 改めてご冥福をお祈り申し上げます。
03日 10月 2018
京都大学の本庶特別教授のノーベル医学生理学賞が決定したニュースが流れて、特に縁もゆかりもない私ですが、同じ日本人というだけで何かしら明るい気持ちになりました。受賞の対象となった研究については門外漢なので世の中の役に立つ立派なものであろうということだけで特に言及しません。本庶先生には心よりお祝い申し上げます。...