カテゴリ:2019年12月


27日 12月 2019
 今年も残すところ数日となりました。前回は年賀状のお話しでしたが、それも何とかなりました。それでも、耳をすませば、「まだまだ年内に済ましておきたい事がある」と心の中で囁く声が聞こえてきます。自宅寝室のベッド脇のサイドテーブルには読みかけの本が4冊も乱雑に積み重ねられていて、いかにも、今さっき手に取ったばかりのように鎮座していますが、実際は2か月くらい放置されていることを、うっすらと積もった埃が証明しています。これはほんの一例で、万事がやりっぱなしになっています。たいして忙しいわけでもないのに怠けることが癖になってしまいました。  今年は平成31年として年始を迎え、年末は令和1年になって終えようとしています。何十年に一度という珍しい年でした。しかも、天皇陛下の御存命の中での新天皇の即位であり、様々な宮中行事の様子も祝賀ムード一色に彩られました。昭和から平成となったときは昭和天皇崩御にあたり喪に服す気持ちがあったことに比べて当然のことかもしれませんが、それだけではなくて日本が天皇制と元号という日本特有の制度、文化に肯定的になったように感じます。しかし、そんな人々の営みとは無関係に、今年は日本各地で自然災害が発生しました。そして来る2020年は待望のオリンピック・イヤーです。スポーツを通して世界中の人々が集う平和の祭典も、その規模と影響力からテロリストの標的になることが懸念されるところです。選手ばかりでなく、その対策や様々な準備に運営する側の人々の苦労も並大抵ではないでしょう。  こうして身近な日常も日本という国も年年歳歳、年は暮、また明けてゆきます。そこには本来は連続した時の流れを敢えて不連続に堰き止めて、過去を見つめ直し、未来に想いを馳せる工夫が為されている、それが年越しを控えたこの時期特有の心境ではないでしょうか。この、しみじみとした空気の中、天災も人災もなく己のみに留まらず、世界中遍く幸多かれと願うことで日頃の身勝手を洗い清めて善人になるのも正月の効用だと言えなくもありません。  これから迎える新年が穏やかにスタートすること、そして、自然も荒ぶることなく、自分も含めた人も善人のままで一年を過ごせるように堰き止められた時間のダムにそっと願いを浮かべて今年の独り言を終えたいと思います。お読みいただいた皆さまにはお世話になり有難うございました。
18日 12月 2019
 今年も年賀状を作成する季節になりました。ここで、多少の違和感を覚えつつ、敢えて作成するとしたのには理由があります。本来ならば「年賀状を書く」とすべきところですが「作成」するとしたほうが実際の作業に相応しいと思ったからです。どこの家庭でもプリンターが「人間の手作業である書く」に替わってパソコンの操作により賑やかに活躍することでしょう。パソコンが普及してからというもの、年賀状は裏面にユニークなアイディアを盛り込んで、自分だけのオリジナルなデザインに仕上げることが簡単にできるようになりました。また、表面の宛名についてもデータベースによって住所録管理するようになって、手書きで一枚ずつ書いていた時代に比べ、格段に作業が楽になりました。  ところが、今年は5月に我が家でトラブルが発生して年賀状の住所録が使用不能になりました。それでも、12月のこの時期までには復旧するだろうと甘くみていました。ところが、予想に反して未だに使用不能のままなんです。そのこと自体に対する恨みつらみもありますが、それはさておき、何らかの対処をしないと年賀状が出せません。昔のように一枚ずつ手書きをするか。それが出来れば、ある意味、心がこもった年賀状になって素晴らしいのですが、残念ながら私はひどい悪筆で手間ばかりかかって恥をかくばかりです。次の手段はもう一度パソコンで住所録を作成すること。そのために150件以上のお名前、郵便番号、住所等をキーボードで入力しなければなりません。これから10日ほどで仕上げるのは大変ですが、これから毎晩夜なべ仕事となるのでしょうか。それでも間に合うかどうか!  これからどうするか、どうなったかは私からの年賀状が届いた方にはわかるでしょうが、ここでは頑張って何とかします、とだけにしておきます。とにかく、電子機器に頼りすぎて困ったことに陥って苦労しているという愚痴話でした。あぁ時間がない!時間がない!
11日 12月 2019
 このコーナーで何を書こうかと題材に困ったとき、改めて世の中を見回してみます。「世の中」と一言で済ませてしまいましたが、よくよく考えると人によって、状況によって、あるいは時代によって、その意味合いが大きく異なります。たとえば、私がブログの題材を求めてさまよい歩く「世の中」としては、自宅と職場、その間を繋ぐ通勤経路が頭に浮かびます。そこで誰と何を会話してどう感じたかが私にとっての世の中です。しかし、けっしてそれだけではありません。子供の頃から慣れ親しんだテレビも世の中を構成する大きな要素です。そういった情報源という意味では、最近PCやスマホによるネット検索などがテレビを凌駕する存在になってきました。実際、私がブログの題材を選ぶのに、家庭や職場での出来事だけでなく、テレビから仕入れた情報も結構あります。そして、同様にネットの世界からも多くの題材をみいだすか、と思いきや以外とそうでもないような気がします。ネットの活用法としては、既に題材を決めた後に、その話の真偽の裏付けや補足が多いような気がします。  思えば人類は文明の発展とともに個々人の持つ世の中を広げてきました。道路の整備や航路の発見も然り、また、エンジンを積んだ自動車や蒸気や電気で走る列車の実用化も然り、そして、航空機の出現で移動手段としては飛躍的な進歩を遂げました。こうして限られたエリアでしかなかった「世の中」がどんどん広がりました。しかし、テレビの存在は人間自身が移動せずとも情報が得られるという点で、交通の発達とは別の次元で「世の中」が広がったと思います。  さて、その次に現れたPCやスマホは、またテレビとは違う作用が働くようです。PC、スマホは「世の中」を広げるというよりも専門分野に深く入り込む傾向が強いのではないでしょうか?その理由は、これまでも指摘されてきたようにテレビの場合、情報が発信元から受け手に一方的に流れる、つまり情報の受け手に取捨選択の機会が少なく、発信元の選択した情報が普及する。(そのことを問題視する意見もありますが、それは置いておいて)その結果、意図せず受け手の「世の中」が広がることになります。それに比べてPC、スマホは双方向コミュニケーションであるがゆえに互いに取捨選択ができるので、興味のあることに集中する傾向が強くなるのかもしれません。  少々ひねくれたことを申し上げるようですが、本人の興味と無関係に外部から一方的に情報を押し付けられることも、世間を広げるという意味で有益ではないでしょうか?という結論で締めくくりたいと思いますが、この拙いブログを読むに値すると選択していただいたあなたに感謝申し上げます。
04日 12月 2019
 「もみじ狩り」という言葉があります。ちょうど今頃の季節に話題になります。赤く色づいた紅葉は大変美しいです。しかし、それを眺めに出掛けることを「もみじ狩り」と呼ぶのはなぜでしょうか?「狩り」は見てのとおり“けものへん“ですから、どうしても獲物は鳥獣を連想してしまいます。...