2018年

10月

17日

歴史ドラマの妙

現在、放映中のNHK大河ドラマ「せごどん」を毎週、楽しみにしています。ドラマの主役は言わずと知れた西郷隆盛。この歴史上の人物の生涯を描いています。大河ドラマは歴史を壮大な大河の流れに見立てて制作しているのですから、主役、脇役を問わず、自ずと登場人物は歴史上、名を残した有名人が多くなります。

 

私は小学校4年生くらいで、それまで夢中になっていたウルトラマンシリーズを卒業して大河ドラマを見始めました。どちらかと言えば早熟なほうかもしれません。こうして約半世紀に渡り大河ドラマを観ていると、どうしても同じ時代背景が何度も選ばれることになり、それぞれの作品の中で同じ人物が別の作家によって描かれ、そのそれぞれを別の俳優が演じることになります。中には、前作に出演した同じ俳優が、今度は敵対する役を演じたりすることもあって、そんなときは興醒めします。特にこの現象が多くみられるのは戦国時代末期と幕末から明治維新にかけてでしょう。

 

そして、私の頭の中は子供の頃、最初に登場した映像が歴史上の事実として定着し、二度目以降が如何にも事実とは異なる作り話の印象が湧き出てしまいます。ところが、いちいち数えていませんが、この歳になると10人目かそれ以上の西郷隆盛に出会うことになり、今度の西郷はなかなかいいな、とかいまひとつイメージが違うな、とか一人前に批評する余裕が出てきます。

 

 

考えてみれば、最初に目にした西郷が事実に即したもので、あとは作り話なんてことがあるわけもなく、その作家によって、遺された資料をどこまで読み解くか、あるいは、その解釈に独創性を持たせるかの違いはあっても、すべて、どれもが、その場にいて目にしたことの記録ではありません。どれも等しく、作家と俳優、その他大勢のスタッフによる創作です。その創作であるドラマが事実よりも観る人に感動を与えるであろうというのが、創る側の意気込みであり、観る側の欲求でもあるはずです。だからと言って、あまりにも史実からかけ離れてしまうと興味が削がれてしまいます。作家の皆さん、「史実は小説より奇なり」という言葉もあります。どうぞ、史実に基づいた本格歴史ドラマを見せてもらうこと熱望しています。

 

 

 

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2018年

10月

09日

思い出の世界

今年の夏はこれまでにない猛暑だったせいか、あるいは、ただの偶然か、以前から大切に思っていた人が二人お亡くなりになりました。お一人はご高齢、もうお一人は長年の闘病生活の末でした。暑さも一段落した9月の下旬になって高校時代の同級生の訃報が立て続けに2件飛び込んできました。今度は年齢が自分と同じということに少なからず衝撃を覚えました。4人の方々それぞれに想いがあるものの、個々の事情については差し控え、このようなときの“哀悼の意“はどこから生じて、どこに向けられるのかについて考えてみたいと思います。

 

子供の頃、初めて身近な人の死に出会ったのは、もうすぐ3歳の誕生日を迎えようとするときに、同居していた祖父が亡くなったときのことでした。このとき、血のつながった父よりも義理の関係の母のほうが悲しみを露に泣き崩れていたことが印象に残っています。その場面を目にして、死に対する悲しみを学習したような気がします。その後、成人してから、祖母や両親など近親者を失いましたが、幸いにして皆、安らかに永眠につきました。そうなると、情の面での喪失感は勿論ありますが、実生活では、さほど影響がなかったうえに、世間的儀礼の面で忙しいこともあって、無事に見送ることができたという安堵感が寂しさに入り混じっていました。

 

悲しみは、かつて故人と一緒に過ごした思い出から生じ、これから自分自身も似たような道を辿るであろうという感慨に向かっています。お世話になった人や親しかった人の死に直面したとき、やはり、情の世界で故人を忍ぶことになりますが、家族の場合と少々、事情が異なるのは遺族の心情を慮ることでしょうか。故人との思い出から生じた感情は遺族に対する悼みへと向かいます。

 

人の死に直面して呼びかける言葉は果たして故人に届くのでしょうか。それは、わかりませんが、こうして考えてみると、既に故人となって、現実の世界には存在していないとしても、遺された人々の思い出の世界には確かに存在しているのでしょう。

改めてご冥福をお祈り申し上げます。

 

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2018年

10月

03日

日本人のアイデンティティー

京都大学の本庶特別教授のノーベル医学生理学賞が決定したニュースが流れて、特に縁もゆかりもない私ですが、同じ日本人というだけで何かしら明るい気持ちになりました。受賞の対象となった研究については門外漢なので世の中の役に立つ立派なものであろうということだけで特に言及しません。本庶先生には心よりお祝い申し上げます。

 

ところで、近年、テニス、ゴルフ、フィギアスケート、水泳、野球、卓球などのスポーツの世界でも日本人の活躍が話題になりますが、そういうときも今回と同じく、そこはかとない嬉しさを感じます。これは偏に日本人としてのアイデンティティーに起因するものと考えます。それでは自分が日本人であるという意識を強く抱くのは、一体どんなときだろうと思い返してみると…

 

私は20数年前に6年間の海外赴任生活を経験しています。そのときの心境とその前後の気持ちを比較すると、やはり海外にいるときは、日本国内で生活しているときには感じない日本人としての意識を強く抱く場面に出くわしたことを思い出します。例えば、現地でスムーズに生活するために、現地の行政府が発行する身分証明書を取得しました。その際の申請書には10本の指の指紋を押さねばなりませんでした。両手がインクでベタベタに汚れたことを生々しく覚えています。また、何かトラブルに巻き込まれたとき(幸いにして私たち家族は大丈夫でした)、頼りになるのは警察ではなく、日本国大使館(あるいは領事館)、さもなければ、高額な費用で雇った弁護士でした。

 

 海上自衛隊勤務の親戚が自衛艦で私の赴任地に寄港したときのことです。めったにない機会なので、その人が乗っている艦が停泊している岸壁まで連れていってくれました。そのとき、目に飛び込んできた日の丸の旗に、思わず眼がしらが熱くなったことを記憶しています。私個人の主義主張を考慮して、普段の国内での生活では在り得ないことです。

 

日本国内にいると、当たり前のように受けている行政サービスも、実は少しも当たり前ではなく、近代国家という制度によって日本人は守られているからこそ、当たり前の生活が送れることに気付かされるエピソードでした。

 

 

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