思い出の世界

今年の夏はこれまでにない猛暑だったせいか、あるいは、ただの偶然か、以前から大切に思っていた人が二人お亡くなりになりました。お一人はご高齢、もうお一人は長年の闘病生活の末でした。暑さも一段落した9月の下旬になって高校時代の同級生の訃報が立て続けに2件飛び込んできました。今度は年齢が自分と同じということに少なからず衝撃を覚えました。4人の方々それぞれに想いがあるものの、個々の事情については差し控え、このようなときの“哀悼の意“はどこから生じて、どこに向けられるのかについて考えてみたいと思います。

 

子供の頃、初めて身近な人の死に出会ったのは、もうすぐ3歳の誕生日を迎えようとするときに、同居していた祖父が亡くなったときのことでした。このとき、血のつながった父よりも義理の関係の母のほうが悲しみを露に泣き崩れていたことが印象に残っています。その場面を目にして、死に対する悲しみを学習したような気がします。その後、成人してから、祖母や両親など近親者を失いましたが、幸いにして皆、安らかに永眠につきました。そうなると、情の面での喪失感は勿論ありますが、実生活では、さほど影響がなかったうえに、世間的儀礼の面で忙しいこともあって、無事に見送ることができたという安堵感が寂しさに入り混じっていました。

 

悲しみは、かつて故人と一緒に過ごした思い出から生じ、これから自分自身も似たような道を辿るであろうという感慨に向かっています。お世話になった人や親しかった人の死に直面したとき、やはり、情の世界で故人を忍ぶことになりますが、家族の場合と少々、事情が異なるのは遺族の心情を慮ることでしょうか。故人との思い出から生じた感情は遺族に対する悼みへと向かいます。

 

人の死に直面して呼びかける言葉は果たして故人に届くのでしょうか。それは、わかりませんが、こうして考えてみると、既に故人となって、現実の世界には存在していないとしても、遺された人々の思い出の世界には確かに存在しているのでしょう。

改めてご冥福をお祈り申し上げます。